赤いだりあ。

思ったことそのまんま書くよ。

みんなとみなさん

家を出ると小雨だった。傘をさすほどでもないんだけど…そう思いながら傘を取りに戻り歩き始める

 

歩いている人は傘をさしたりささなかったり。

 

ふと思った

 

言わないように気をつけてる言葉ってそれぞれあるんだろうな

 

でもその言葉はきっとそれぞれ違っていて

 

それはその人の経験に深く関わっているんだろうな、ってこと。

 

自分の場合そのひとつに「みんな」っていう言葉がある

 

「みんなそうだと思うよ」みたいなふうに使うときの「みんな」

 

「ふつうは〇〇じゃない?」みたいなふうに使われるときの「みんな」

 

たとえば「みんなのうた」みたいに使われるせいで

 

絵本のタイトルや文章にもよく使われるせいで

 

かわいくてやさしいイメージがあるけど

 

人生のところどころで

 

この「みんな」に誰かが深く傷つく場面をけっこう見てきたな、そう思う

 

確かに言われる立場だった時に

 

「みんな?みんなって誰だよ?!」という思いにかられてもやもやしたこともあった。

 

だから使うときには慎重になる

 

ふと言ってしまいそうで怖くもある

 

「みんなそうだと思うよ」には「自分もそう思う」気持ちが入っている

 

だからみんな、なんて言わないで「自分はこうだ」と言えばいいのだ

 

誰かよくわからない大勢を味方につけようとしないで。

 

どうしても言わなくてはならないのなら

 

「みなさんはそうでした」と言えばいいのかも

 

そこに自分は含まれないから。

 

「みなさんはそうでした。自分もそうです。」

 

あるいは

 

「みなさんはそうでした。自分は違います。」

 

そのほうがなんだかすっきりするなあ、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

引越しは多く経験したほうじゃないかな

 

普通とか平均を知らないまま言うけど。

 

子ども時代にはなかった

 

人見知りだしひっそりしていたかったからそれはよかった

 

転校とか絶対に嫌だ

 

転校生には興味津々だったけれど。

 

まあ引越しっていうのは結婚して以後の話です。

 

今と違って遠距離の電話代がとてつもなく高かったし

 

やっぱり手紙をたくさん書きました

 

親や姉たち、友人、知人

 

自分で書いたメモや日記の類はほとんど捨てました

 

もうなにも未練のようなものはなくて

 

むしろ残ってあることがなにかたまらない気がして。

 

ですが

 

人の元にわたってしまったものは取り返せない

 

まだあるのかなあ

 

そう思うのがほんとうにいや

 

嘘や飾りで書いてない

 

ほんとうのことしか

 

それがなんのなぐさめにもならない

 

どうか捨ててしまっていて

 

そう思う

 

一番たくさん書いた相手はたぶん家族(今一緒にいる人)

 

引越しのどさくさにまぎれて捨てました

 

もう残ってない

 

よかった

 

家族はとっておくタイプの人なので

 

ずいぶん文句を言われました

 

知るもんか、と思う

 

とっておいて、なんて頼まれてないし。

 

手紙書くこと嫌いじゃないですよ

 

書こうと思ったらずっと書いていられる

 

書くことなんか無尽蔵って感じにあるし。

 

捨てずに取っておくことから生まれる幸福感に酔っていた時期だってある。

 

なんだろうなあ、この変わりようって…

 

両親は書く人たちでした

 

父は地方新聞の投稿欄の常連だったし

 

母も文章教室(通信の)とか、短歌とか

 

そして二人とも日記書くのが長年の習慣で

 

母なんて、日記の下書きまでしていた

 

旅行中も必ず書いた

 

先日部屋の整理をしていて

 

母と義理母からきた大量の手紙が出てきて

 

見た瞬間にどっと気が重くなった

 

自分でさえそうならば

 

自分の死後誰か(子どもあるいは親族の誰か)がこれを見つけたら

 

読むのはかまわないが処分についてもしかしたら心を痛めるかも

 

…みたいなことを思ったんですよね

 

なので

 

自分が処分しよう

 

今できるうちに

 

そう思ったのです。

 

だからあれは今至った心境です。

 

呪詛っていうふうな言葉を使ったのは

 

手紙って一応体裁を保ったものだから

 

その手紙が書かれた頃の差出人のなまの感じを自分は思い出として持っていて

 

その姿と手紙に書かれた文章の端正さの間にあるギャップみたいなものが

 

喉をするっと落ちていかない違和感のある食べ物みたいにちょっと感じた、

 

っていうのがありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やさしくしてね、なんて言わない。

やさしくしてね、は、やさしくないね、と同じことだ

 

やさしい人だ、なんて自覚したことはない

 

だからといって、やさしくない人だ、とも自覚してるわけじゃない。

 

そもそもやさしい人とやさしくない人がいるという考えが怪しいと思う

 

ほんとうに甚だ疑問に思うよ。

 

世の中にはいろんな感受性がそれこそ人の数だけあって

 

ひとつひとつの感受性がやさしさについて思考しているんだよ

 

だから

 

きみの思考が作り出したやさしさをきみ以外の人に求めて

 

きみ以外の人は自分が思考したやさしさをきみに対して発揮している

 

たぶんそういうことです。

 

だから悲観することはないし

 

同じくらい楽観もできない

 

くりかえし暮らす中で

 

一瞬光るもの

 

わたしにはきらっと感じられたんだ

 

すがすがしい光だった

 

もしかしたら

 

きみはぎらっと感じたかもね

 

よこしまな光

 

ねえ

 

「くりかえし」って早口で言うと「暮らし」みたいじゃない?

 

くりかえし暮らす

 

そう言ったら

 

くりかえす暮らし

 

きみはそう返す。

 

ずれたり重なったり生きるってなんだか忙しいよね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

呼ばれたい名前なんかない

ずいぶん長く生きているし

 

引越しもずいぶんしたので

 

積極的に出会いを求めるたちではないにしても

 

けっこう人と出会ったかもしれない。

 

友だちを呼びなれた名前以外の呼び方で呼びかける、というようなことがたまにある

 

割と無意識的にその場の感情で。

 

面白がってくれる人もいるし嫌がられる場合もある

 

自分が思いがけない名前で呼ばれてそれが定着することもある。

 

臨海公園でペンギンの前から動かなくなって以来

 

その時の連れ(今は年賀状のやりとりくらい、離れてしまったから)からは

 

ペンちゃんと呼ばれるようになった

 

今はもう遠い呼び名だけれど思い出すたびに記憶が戻ってくる。

 

単なるニックネームではあるけれど

 

それまでになかった名前で呼ばれるのは

 

思いがけない贈り物を受け取ったみたいでわたしは好きだ。

 

三人以上の人と会うのはちょっと苦手

 

二人で会うときもわりとよく名前を呼ぶ

 

会話の最初にたまに名前を呼びかける

 

いつもたいがい一人でいるから

 

今は目の前にいるこの人に向かって喋っているのだと

 

強く意識するためのスイッチみたいに

 

その人の名を呼ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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東(体育館やスタジアム他さまざまなスポーツ施設がある)と西(菖蒲園や睡蓮池、万葉の森がある)の緑地を結ぶおよそ1kmの緑道の真ん中辺に住んでいる団地があって、だいたいここから歩き始める。人は見えない。

 

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きれいに咲きました、見て、見て、と言ってるような花を見るのは、もちろん季節ごとの楽しみではあるけれど、実際好きでたまらないのは野の草花だ。

 

樹の幹をじっと見るのもなかなか好きだ。

 

この間知人と歩いている時に、その人が「素敵なおうちだね」と言うから、なんとなくただ「あっ…」と思ったな。自分が惹かれるのは、そういうものではなかったから。

歩く道に平屋でブロックとトタン(すべてが見事に錆びている)のかなり大きな家がある。人が暮らす場所にカメラを向ける度胸はないから、写真はないのだが。なんかいい感じなんだよなぁ…前を通るたびに思う。そこで営まれている日々の暮らしを想像するのがね、想像をかきたてるものがある感じがすごくいい。

 

空き地や家と家の間の奥まった場所。ちょっとほったらかされてる感じ。古タイヤや木箱が無造作に積まれてて、コンクリートから錆びた鉄の棒が突き出ててぐにゃっと曲がってたり。なんかそういうのに一瞬心が奪われる。

 

 

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この間、通り過ぎながらふと目を上げたとき、アザミが上のほうにいっぱい咲いていた場所に行ってみる。

 

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たくさん咲いていた。あたり一面アザミ。

 

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無邪気な児童公園。絵本を読みたいな。

 

昨日買った雑誌

 

https://magazineworld.jp/croissant/

 

料理もなんだけど

 

谷川俊太郎さん、末盛千枝子さんの対談が読みたくて買った。

 

今日、休憩時間に読もうと思って楽しみにしてる。

 

大好きなゴフスタインの本

 

 

ピアノ調律師 (末盛千枝子ブックス)

ピアノ調律師 (末盛千枝子ブックス)

 

 

 

ゴールディーのお人形 (末盛千枝子ブックス)

ゴールディーのお人形 (末盛千枝子ブックス)

 

 

 

ブルッキーのひつじ

ブルッキーのひつじ

 

 

 

 

白い花。

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今朝は菖蒲園に様子を見に行ってみた。

 

花はまだまだ

 

四段のうち、中の二段はひとつとして開花していない

 

この間は見えてなかったつぼみの先が少し割れて花の色がわかる程度

 

あとどれくらいかかるだろう

 

一週間くらいしたらまた来ようと思う

 

その時はサンドイッチかおにぎりを持って。

 

かえるが鳴いている

 

うっとりするような甘い声だ。

 

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睡蓮池も咲き始めた

 

ここは全部白い花

 

今はつぼみがいっぱい。

 

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水草で覆われた水面。

 

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白いホタルブクロ

 

網が邪魔でぐっと近くに寄れない

 

アザミも咲いていたんだけど、高い場所で撮れなかった

 

薊っていう字を読んだとき

 

漢字よく知ってるのね、って言ったのは誰だったんだろう

 

言われた言葉だけが記憶にある

 

記憶って脆くて完全に保つのがすごく難しいんだ。

 

 

 

 

 

 

 

昨日シャープペンシル(0.9mm)を買ってきて久しぶりに字を書いた

 

ブログとかツイッターとかになにか書き込んだ文章って

 

書きっぱなしで読み返すってあまりない

 

紙に書いた字は自分以外の目に触れるってたぶんないけど

 

愛着度でいうと深いと思う

 

気が済んだらどんどん捨てるから結局残らないから

 

ネット上の言葉のほうが現状では残ってると言えるけど。

 

ネット上の言葉は

 

誰かが時折言葉をかけてくれたり

 

マークしてくれたりすると

 

なんかはっと正気に返る感じがするときがある

 

言わなきゃよかった、って思うことも多い

 

嘘をついてない感じ、それと誰にでも優しい感じ

 

それって両立しないよな

 

いつもそう思う

 

両立しないことはどっちかを選ぶしかなくて

 

選ぶとしたら

 

自分は嘘を織り交ぜないほうを選ぶ。

 

 

カシオペヤ座が頭から離れない

 

起き抜けの脳みそに何故か突き刺さった

 

天の微光にさだめなく  うかべる石をわがふめば
  おおユリア しずくはいとど降りまさり  カシオペーアはめぐり行く

 

ところどころ覚えている賢治の詩を思い出し思い出し

 

光に向かって帰り道を歩いた。

 

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朝の道はその先がいつも光ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

45度。

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雨は上がって空は薄灰色。

 

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ヒメジョオンだと思って見ているのだけれど自信はない

 

春紫苑、姫女苑…毎年どっちだっけ?って思いながら春も初夏も過ぎていく。

 

 

花の名前を教えてくれる、そんな人が好きです

 

花の名前を教えてくれた人といつの間にか疎遠になりました

 

一緒にいる時ちっとも楽しそうじゃなかった

 

一緒にいるときの自分をわたしは好きになれなかった

 

だれのせいにもしたくない相性というやつ

 

花の名前を教えてくれた人を嫌いたくない

 

花は花だ。

 

 

 

昨日ツイートしたことをまた考えている

 

東日本大震災が起こったとき

 

子どもたちと遠く離れていた

 

その隔たりを平常よりずっと大きく感じて過ごした

 

女の子は下の子を出産したばかりで

 

男の子はひとりで暮らしていて

 

もうすっかり大人だから

 

怖いとか不安だとかあまり言わなかったけれど

 

感じていることはありありとわかった

 

女の子の義理の姉はアメリカにいて

 

原発のことが報道されるやすぐに

 

こっちにおいで、とメールを寄越したと聞いた

 

授乳している人たちにはお水の配給なんかもあったよね、あの時

 

遠く離れた本州の最西端のここでさえ

 

ペットボトルの水が買えない事態になっていた

 

ただできることをしたい一心で手に入れた水を送ったりもした

 

そんなことを思い出していた

 

基地、だとか、原発だとか。または病気とかもそうなんだけど。もっというと戦争とか。

 

考え続けてるわけだよね

 

そういう事態とあ具体的にかかわりが無い、あったとしてもすごく薄い

 

そういうときに考えて自分はこうだ、って思うとする

 

もし自分や家族が具体的に巻き込まれる事態になったとして

 

純粋なその自分なりの考えを意思としてどこまで堅持できるか

 

たとえ

 

その思想のために投獄されるようなことになっても

 

拷問を受けても考えを曲げずにいられるか

 

いやぁ、極端ですけどつい考えるわけね

 

なんかね。

 

1ミリも揺らがないっていうのが理想なんだけど

 

愛おしい人たちのことを思うと

 

いつも45度くらいずれる

 

想像だから45度で留まっているんだとそう思う

 

それが現実になったら

 

針はどこまでも振れ続けて

 

 

それ以上考えるのはとても怖い。

 

 

 

 

 

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つつじの時期は過ぎましたが

 

まだところどころきれいに咲いています。